舞台の上で踊り狂う者を俯瞰せよ(映画『アナと雪の女王2』評)
[おことわり]
この記事はサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー21日目の記事です。
同会のメンバーではありませんが、執筆の機会を作っていただきました。
映画のネタバレを気にする方は、まず映画をご賢覧ください。
[本文]
2014年に公開された『アナと雪の女王』は、グローバルなレベルで観客の熱狂を招いた。
主題歌である“Let It Go”の歌詞が体現する通り、自分の境遇や宿命にめげず確固たる自己を保つことを目指す姉妹の物語である。彼女たちは、マイノリティや自尊心の問題に敏感な、先進国の人々の共有する理想を体現した姿だったのだろう。
それから5年後に公開された『アナと雪の女王2(原題: Frozen II)』では、前作の登場人物たちの価値観の違いがより浮き彫りになった。姉妹であるアナとエルサに止まらず、サザンアイルズ王国の第13王子であるハンスや雪だるまのオラフの価値観について、前作より深く描かれている。
前作で姉妹が望んだ「自らの解放」は、本作では変質することに注目しよう。人間関係を重視するアナは周りの人間が幸福になることを願い、「心のままに(原題: Into the Unknown)」を歌うエルサは自分の使命に従うことへ精を出す。二人の行動は対照的で、物語の結末まで統率の薄さが目につく。だからこそ、彼女たちを取り巻く第三者の存在こそ本作の要となるのではないか。
本稿では、『アナと雪の女王2』で活躍する姉妹の行動と運命、そして彼女たちを取り巻く第三者の存在について、一つの見方を提示する。
真実の探求
姉妹であるアナとエルサは、異なる価値観に従って生きている。
アナは自分と親しい人間が困難な状況に陥ることを極度に恐れ、人間関係の調整役として奮闘する。エルサは、自分の境遇と向き合い続けながら、突然聞こえるようになった声を探し求めるために危険を冒す。つまり、アナは人と人との関係性に、エルサは自らの内なる声(inner voice)に価値観の軸を置いて行動している。
このような価値観の違いは、彼女たちの境遇に端を発する。映画の冒頭では、アレンデール王国で姉妹とその両親が暮らすシーンがあり、母親が「魔法の川の子守唄(原題: All Is Found)」を歌う。
魔法の川の伝説を語るこの曲では、真実の探求と冒険の危険が唄われている。これからの姉妹の冒険を予感させる内容だが、その末尾は次のように締めくくられる。
When all is lost, /then all is found
(全てを失った時/全てが見つかる)
この「全て」とは何を指すのだろうか。シナリオに従えば、のちのアナの境遇を指すことは明白だろう。しかし、危険を冒してまで真実ーーエルサが聞いた声の正体、両親の死の真実ーーを探す者たちにとって、ただ一人の境遇を「全て」とみなすのは安易かもしれない。
ただし結果として、二人は異なる世界を生きる道を見つけたのは大きな発見である。アナはアレンデール王国の新しい女王となり、夫婦の一員となり、今までとはより一層複雑な人間関係の中で生きていくことになる。また、エルサはアナが置かれた境遇とは離れ、自然の中でノーサルドラと生活を共にする姿が描かれている。
二人の間には常に「分断」がつきまとう。前作においては、エルサが魔法の力でアナを傷つけてしまい、仲の良かった姉妹は両親の死に遭遇するまで生活を共に出来なかったことが明示される。姉妹の境遇の差は、生来的な特徴に起因するものだった。今作ではアナは「都市的世界」に生き、エルサは「民族的世界」に生きることを選ぶ。
「分断」は彼女たちにトラウマを引き起こした。エルサは魔法の力に対して、アナは親しかったエルサと離れて暮らす事に対して恐怖し、それは成長した彼女たちの価値観に繋がっている。そのトラウマを克服するために、二人は別々の使命を持っていた。
二人の使命は違っていたからこそ、正確にいえば〈世界〉に対する態度の違いが濃かったために、二人を含め魔法の森へ向かったアレンデール王国のチームは統率が取れない。しかし、その状況を俯瞰していた存在がいる。それはオラフである。
オラフが〈世界〉を掌握する時
今作でのオラフの言動は、目を引くものがいくつかあった。オラフたちがトナカイたちの引く荷車に乗って魔法の森へ向かうシーンを思い出そう。オラフは科学的に全く根拠のない、むしろ明らかに嘘の内容を喋り続ける。厳しい山道を進むメンバーを労うジョークと言うよりも、「トンデモ」に近い印象である。
しかし、圧倒的な魔法の力を得たエルサの意志に従って魔法の森へ進む彼らにとって、疑似科学的な戯言が違った意味を持つとしたらどうだろう。つまり、魔法にせよ科学にせよ、強力な「力」によって〈世界〉の見え方が変わってしまう事の滑稽さを示していたとしたら?
物語のラスト近くにおいて、オラフは決定的な一言をいう。アナの奮闘によりアレンデール王国とノーサルドラの歴史的な呪縛は解かれた。アレンデール王国の人々も街も、壊滅の危機から救済される。そしてオラフは呟く、「ハッピーエンドが大好き」。
姉妹たちが苦悩して手に入れた「ハッピーエンド」を、自己言及的に述べること--ここに『アナと雪の女王』を巡る舞台装置を見ることができるだろう。つまり、自分の価値観と見えている〈世界〉に没入する人々を俯瞰する者として、オラフの立場を定義することができる。舞台の上に立つエルサやアナを、(エルサの氷結によって)オラフ自身が消滅する運命になってもこの事態を眺め続ける者に徹していたのである。
本作において最も教訓的なのは、このオラフの身振りである。エルサが声に導かれた先で ”Show yourself!(意訳:「あなたを見せるのよ」)” と歌うとき、アナが仲間を失って「あの人はもういない」、「それでも正しいことをするのよ(傍線字幕版原作)」と呟くとき、彼女たちの価値観を俯瞰する目をオラフが示していたことを忘れてはならない。
そして、このような視座から「魔法の川の子守唄」について、よりシビアな解釈を与えたくなる。「全てを失った時/全てが見つかる」という歌詞で示された「全て」とは何か。
エルサはアナを引き連れて、未知への探求(Into the Unknown)に突き進んだ。探求した結果、運命の不確実性を乗り越えることができたのだった。しかし、オラフの一言はその不確実性がそもそも存在しない、この〈世界〉の舞台装置に言及する。
「全て」とは、姉妹が探求した先にあるはずの不確実性だったのではないだろうか。「ハッピーエンド」を目指して、定められた二人の幸福な未来に向けて、運命の円環の輪が閉じていたことが俯瞰的に示されたのだ。
振り返れば、『JOKER』(2019年)のアーサーも、不遇な目に遭いながら自らの価値観を、彼が生きる〈世界〉の中で体現する者として描かれていた。
自らの価値観が〈世界〉に表出していく様は、舞台の上での活躍を夢見たアーサー自身が舞台装置として駆動していたことを思わせる。身近な人間や社会を巻き込んで価値観への没入を謳った『JOKER』は、救いを見出せない自らの運命の方途を解放するための運動だったのでは無いだろうか。
価値観の体現が舞台装置の駆動によって魅力的に達成してしまうことは、『アナと雪の女王2』においても言えるだろう。『天気の子』(2019年)が公開されたときに、「アニメ的リアリズム」についてネット上で議論されたことは記憶に新しい。アニメならではの演出によって、物語を現代社会の水準で考察することに齟齬が生じてしまうという問題である。
音楽や演出の素晴らしさはDisneyの持ち味だが(筆者は「心のままに」を唄うシーンで涙腺が崩壊したが)、「アニメ的リアリズム」が高度に発揮される作品こそ、価値観の体現を謳う者に対して俯瞰という視点が必要なのかもしれない。(了)